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当整骨院の創業秘話

世界王者・柴田国明氏を世界タイトル戦前に施術したときの写真

上の白黒の写真は、1971年(昭和46年)11月11日に松山市でWBCフェザー級世界タイトルマッチが松山市の県営ラグビー場で行われ(挑戦者のエルネスト・マルセルで中継はフジテレビでした)、
この試合4~5日の前に当時松山市立花5丁目で「渡部指圧」を開業していた祖父と叔父従兄弟が、世界チャンピョンの柴田国明氏と随行のカメラマンさんに写して貰った時の貴重な写真です。

丁度、柴田選手の治療が終わり、サインを貰っている時の様子です。
(残念ながら、後日のタイトルマッチでは、惜しくも柴田国明チャンピョンは判定負け隣、大変残念でした)

当院は祖父が1948年に松山市立花町にて「渡部指圧」として開業しました。

大阪の明治東洋医学院を1975年3月卒業し4月に厚生大臣認定の「柔道整復師」資格を取り、「渡部整体療院」に病院名を改名し1960年に新店舗になった時に[東洋整体研究所」に再度改名し、
2010年9月に現在地の道後に移転3度目の改名し[東洋整骨院」になりました。

おかげさまで、院長になってから46年余り、患者さんの施術歴も延べ16万人以上となり、整体に励んでいます。

祖父の教え

祖父の開業した理由の最大の教えが有ります。

祖父が昔ひどい腰痛で困り果て、何をしても、治ららない、そんなときに
道後に東京から、指圧を広めようと、東京の指圧の大先生「柴田純宏師」(真宗・長生派のお坊さん)が指圧の流派の一つ「長生流」を広めようと施術と有望な弟子の募集を兼ねて、道後にて、一カ月くらい、滞在していました。

祖父が「難病の人来たれ」の新聞チラシを見て、道後の滞在先を訪れ、施術を何回かして頂き、あんなに苦しんだ、腰痛が治りました

感激した祖父は当時40代で、勤務していた松山市役所の公衆衛生課の課長をしていたのを、家族にも相談せず、やめて
[指圧]の技術身につけ、自分の様に、困っている人を助けようと、長生医学を創生した「柴田純宏先生」の元に弟子入りし2年間修行したのち資格を取り「指圧師」(国家資格)となりました。

自分の息子4人とも、指圧師や柔道整復師の道に半ば、強制適に送り込みました。
横浜の生麦地区に有る「長生派のお寺の中に有った指圧の学校」に3人送り込み、
残る、末っ子の5才上のオジの渡部仁は、後に、大阪の明治東洋医学院に行きました。

又、祖父は、出張の受付の為に、当時珍しかった、電話を[NTT」を申し込み、高額な保証金(10万円今だったら50万円くらい)が必要で、
電話加入料込みの約10万円を銀行で借りて、今のNTT(当時は電信電話公社)に申し込み、松山市で436番目の電話番号を頂きました。
(現在は使用していませんが電話番号が2局の0463番です)
(0463が松山での電話の受付順です)

祖父は、指圧を広めようと現スバル自動車が当時発売していたスクーターで名前が「ラビットS-101」だと思います。
排気の煙が、ほとんど、出なかった
・・・・なぜ車の名前が分るかと云うのは、ウサギが跳ねてるマークが記憶に有り割と乗り心地も良かったからです。
ウィキぺディアで調べると、発売日が1957年でシリーズ初のオイルダンパーが採用されたようです。

スクーターにも慣れ、チラシを愛媛県各地域に配布して、
出張の依頼の電話があれば、どこにでも、愛用のスクーターで行ったそうです。

このスクーターで、私が4~5歳頃に、スクーターの後ろに、しがみ付き、ヘルメットも無い状態で(当時はOKだった)昔の、国道196号線は、今よりも、車も少なく、美しい、海岸風景を飽きることの無く、眺めながら、北条の辻と云う所に有る「仕出し料理」専門店」の「若みどり」と云うお店に行きました。
店内には、腰を痛めた、当時は女相撲をしていた、体の大きい、おかみさんが出迎えてくれ、祖父が腰痛の治療をした事を 60過ぎた今も、鮮明に、なつかしい記憶が蘇ります。

これからの希望

祖父と父」が守り、「現院長」が受け継ぎ、
次は「四代目」になる我が息子が受け継ついでくれるでしょう。

松山市で一番古い、歴史の有る、老舗の「本物の整体店」です。

70年間の技術を受け継いだ「信用と技術で人助けの精神」で、
これからも更に頑張っていきます。
整骨院として少しでも、困っている人達のお手伝いをします。

松山 東洋整骨院 お気軽にご来院ください